冷笑系について言いたいこと

学生時代、俺は所謂冷笑系と呼ばれる部類の人間だった。

将来への不安を誤魔化す為、或いは自分の存在価値から目を逸らす為、真面目に生きている人達や、何かに真剣に取り組んでいる人達を見て、「何を必死になっているんだ」「そんなことをしても無駄なのに」と哀れみ蔑んだ。

あの頃の俺は、本当に馬鹿でどうしようもなく下らない人間だった。

あの時嗤った人達に向けて謝りたい気持ちと同時に、思い出す度にただ恥ずかしい気持ちでいっぱいになる。

 

余程人格の破綻した人間でない限り、人は身近な他者と自身を比較する事で、自身の存在価値を確立していく生き物だ。

しかし、時に自身の存在価値が不確かになる時がある。

過去に思い描いていた未来の自分の価値が、今の自分の価値とズレていた場合が、主たるケースであると思う。

深層心理で描いていた理想や夢が叶わず、順風満帆な人生を送れていないと感じた場合、自分の価値が分からなくなり、結果、必要以上に他人と自分を比べたがるようになる。

そうなると価値観の比較対象は身近な範囲外へと拡大し、直接関係のない他人にも及ぶようになる。

無関係な他人の粗探しに躍起になり、欠点を見つけては「なんて奴だ」と笑い、「自分はコイツよりもマシな人間だ」と勝手に安心するのである。

 

過去に冷笑系だった自分が言うのも難だが、安い価値観である。

端から言わせてみれば、他人の粗探しに躍起になっているというのは、彼ら冷笑系が「なんて奴だ」と笑った他者の欠点以上に、彼らにとって重大な欠点であるのではないか。

あの頃の自分を思い出して言わせてもらうが、他人の粗探しが好きな人間を好きになるというのは難しい。

俺だって、あの頃の俺と友達になりたいかと言われたら、正直嫌だ。気持ち悪いし。

仮に好いてくれる人間がいるとするなら、それは同じように他人の粗探しが好きな人間だろう。

そうした人間達が集まり、冷笑系と呼ばれるグループを形成する。

他人の粗探しに同調してくれる他者というのは、価値観が不確かな冷笑系にとって、「自分は正しいことをしているのだ」という安心感を与えてくれる。

「あんな奴よりも俺らはマシだよな」と互いに醜い傷口を舐め合う事で、自分の存在価値を高めようとする。

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しかしながら、実質的には彼らの価値というものは、少しも変わっていない。

いくら他人を蔑み嗤ったとしても、自身の価値が上がることはない。

寧ろ好かれにくい人間達が群れる事により、更に自分達がグループ外の人間達から遠巻きにされる悪循環を生んでしまう。

彼らはそんな周りの人間達を見て、理不尽にもこう思うのだ。

「俺たちの事を理解してくれない奴らが悪い」と。

そうしてヘイトの環は加速度的に拡がり、更に無関係な他人へと攻撃のターゲットを向けるようになる。

同時に彼らはこうも思うのだ。

「別に俺たちの事を理解してくれない奴らに好かれなくたっていい」と。

そうして彼らは社会から孤立していくのだ。

自分が社会にとって如何に矮小な存在であるか、死ぬまで真に理解する事なく、延々と傷の舐め合いに執心するのだ。

悲しい事である。

 

さて、ここまで長々と書いてはみたが、この話のモデルが現実の誰かさん達をモチーフにしている事は、しっかりとした審美眼を持つ諸君らにとっては想像に難くないだろう。

彼らのようにならない為にも、現実の自分の価値をしかと見据え、己と真摯に向き合っていく事が大切なのである。

そしてもし自分に心当たりがある方がいるならば、まずは等身大の自分を受け入れる事から始めてみよう。

惨めで死にたくたっていいじゃないか。

俺も毎日辛い。

でも必要以上に自分を大きく見せようとしたって、更に惨めになるだけだ。

強がりはどういった形であれ、いずれバレる。

と言うか、大抵の場合周りには既にバレている。

それを自身が理解した時、大きなダメージを受けるのは明白である。俺の経験上ね。

社会から孤立したくないなら、まずは自分がどういった存在であるかを、しっかり認識する事から始めましょう。

じゃないと人生終わるぞ。

俺が言えるのはそれだけです。